小さな本の戦い 〜技術とエレクトロニクスの男たち〜 前編

はじめに
 ここに書く文章はフィクションを多く含んでいます。また最近お気に入りのNHKの番組「プロジェクトX 〜挑戦者たち」に影響を受けて書いたものですので、読む前には中島みゆきの「地上の星」を、読み終わった後には「ヘッドライト・テールライト」をかけて雰囲気を盛り上げてください。番組をまだ見たことがない方はぜひ一度ご覧のうえ、読んでいただくことで少しは感情移入していただけるかと思います。

 すでに番組をご覧の方で、さらに気分を盛り上げたい方は下記のページからスクリーンセーバー等をダウンロードし、読む前に十分に気分を高めてください。YS-11のものがオススメです。

 ダウンロードはこちらから → http://www.nhk.or.jp/projectx/screensaver.htm
 

オープニング曲 
 
主題歌「地上の星」 作詞・作曲:中島みゆき

 風の中のすばるぅ〜♪
  砂の中の銀河ぁ〜♪
   みんな何処へ行ったぁ♪ 見送られることもなくぅ〜♪
  草原のペガサス♪
   街角のヴィィイナス〜♪
    みんな何処へ行ったぁ♪ 見守られることもなくぅ〜♪
   地上にある星を誰も覚えていない
    人は空ばかり見てるぅ〜♪
     つばめよ高い空から教えてよぉ♪ 地上の星をぉ♪
      つばめよ地上の星は今ぁ♪ 何処にあるのだろうぉおお〜♪

 

小さな本のはじまり
 1996年春だった。Libretto20は神々しくデビューし、人はそれを神の創りし最高のモバイルマシンだと絶賛した。品不足は続き、長い間Libretto20を手にすることができない日が続いた。
 そんなマシンを創ったのは神ではなく、数人の東芝技術陣だった。

 その6ヶ月後、Libretto30が発売される。売れ行きは上々、しかし東芝青梅工場ではすでに次のマシンが用意されていた。

 Libretto50の発売は年を越えて1997年の正月のことだった。Libretto50をもってLibrettoはCPUの大手メーカーIntelの軍門へと下る。そしてHDDの容量は当初の3倍近い800Mにも達していた。神と称された東芝技術陣は当初誰も想像できなかった容量を8.45mmという小さな隙間に実現した。誰もがLibrettoが永遠だと思った瞬間だった。

 Librettoを支えたのは東芝の技術陣ばかりではなかった。聖地とうたわれた秋葉原チチブデンキに集う男たちは、神をも越えようとしていた。Libretto20の容量問題を解決するため・・・裏蓋を切った男たち、そして少しでも速く、そんな願いを胸にクロックアップという高速化の道を切り開いた男たちがそこにいた。

 夜な夜な集うLIBRERと言われる男たちはモバイルの未来について熱く語った。

 そして次々と出てくる市場の要求を東芝技術陣はいとも簡単にクリアしていった。

 1997年6月には使用中充電を可能にし、さらにはバッテリー性能を向上させたLibretto60を発売。同年10月にはキーピッチを広げた待望のMMXPentium搭載機Libretto70を発売した。

 そしてLIBRERたちはさらにそれを越えるべく、HDDを換装し、クロックアップを行い、神に追いつこうとしていた。

ある日のこと
 Libretto70の発売から1ヶ月後の1997年11月、東芝技術陣とLIBRERを驚かせたある出来事があった。AV機器大手のSONYがパソコンを発表したのである。その名はVAIO505。薄型で銀パソと言われたそのマシンは今まで事務機器のようだったパソコンの世界を一気に変えた。そして東芝技術陣とLIBRERの辛い戦いがはじまったのだった。

 翌1998年2月、欧州でLibretto100が発売された。そのLibrettoは今までよりも・・・大きくなっていた。
 東芝技術陣が考え出した秘策。それは大型化することで従来機との差別化をはかることだった。2年が過ぎようとしていた。Librettoは未だに健在だった。だが銀パソの魔の手はもうすぐそこまで迫っていた。

 大きくなったLibretto100は翌月1998年3月に国内販売を開始。ところが思ったようには売れなかった。大きくなったことと、Librettoの売りだったリブポイントが使いにくくなったことが原因だった。

 折しも長野オリンピック景気にわく日本にあって、飛べない原田のごとくLibretto100はその重い体をひきずっていた。

 しかしまだ東芝技術陣には勝算があった。

 1998年6月。LibrettoSS1000が華々しくデビューする。それは今までの事務機器のようだったLibrettoを銀色に、そして薄くしたものだった。その瞬間、神々しい光がLibrettoに降り注ぐようだった。

 それなりには売れたLibrettoSS1000だったが、既存のLIBRER達には不評だった。換装しにくいHDD、従来機と同じ液晶。そしてなにより銀パソになってしまったことが不評の原因だった。

 Librettoは既存のLIBRERの改造というパフォーマンスによって知名度を上げたマシンだった。そのLIBRERたちが改造できないマシンに群がることはなくいつしかSSは不遇の名機と呼ばれるようになっていった。

 そうした間にもSONYは次のマシンを用意していた。目玉VAIOこと、VAIO-C1の登場だった。それはLibrettoSS1000の発売から遅れること3ヶ月、1998年9月のことだった。

 VAIO-C1は売れた。伸び悩むLibrettoを後目にどんどんと売れた。悩む東芝開発陣、そしてLIBRERは一人、また一人と去っていった。

 日本の景気低迷を反映するがごとくLibrettoは低迷した。苦悩する東芝開発陣からはいまだ答えを出てこなかった。

 市場では”Libretto滅亡説”が唱えられ、世紀末の様相を呈していた。しかしこの冬の時代を耐えていたLIBRERたちがいた。

伝説の男たち
 1998年秋、10月、東芝からはLibrettoSS1010が発売になり、NTTDoCoMoからはSSベースのマザーボードを持つLibrettoM3が発売された。そしてこのLibrettoM3がその後のLibrettoの運命を大きく変えていった。

 東京にはすべてがある。そしてその東京に彼もいた。LibrettoM3発売直後のあの日、彼は伝説を作り始めていた。彼の名は警備員コスナー、伝説のLIBRERの一人である。
 彼のページは日々更新された。そしてその後に続くLIBRERが後を絶たなかった。LibrettoM3解体新書。別名玄白の名を持つ彼は、まさに東洋医学の神秘を実践していた。Librettoの灯は消えず、煌々とその光は輝き続けていた。LibrettoM3は133MHzから266MHzまでクロックアップできるという事実が告げられたあの日、LibrettoM3は他にない魅力をLIBRERたちに投げかけていた。

 遠く山口県。そこには海がある、そして山もある。萩焼を生業とする彼の名はTOKU。毛利輝元の小間使いを祖に持つ彼は萩焼の仕事をする傍ら、空を見上げこうつぶやいたという。

 「USBを内蔵しよう・・・」

 衝撃だった。彼の偉業はLibrettoと彼自身を伝説へと変えた。今までの悲願であったLibrettoへのUSBの内蔵、そして東の大老警備員コスナー氏のクロックアップ、HDD換装があってこそLIBRERたちは今まで以上にLibrettoM3の魅力に魅了されていった。

 
エンディング曲
 
「ヘッドライト・テールライト」 作詞・作曲:中島みゆき

  語り継ぐ人もなく♪
   吹きすさぶ風の中へ〜♪
    紛れ散らばる星の名は♪
     忘れられても♪

   ヘェーッドライト・テェールライト 旅はまだ終わらないぃぃ♪
    ヘェーッドライト・テェールライト 旅はまだ終わらないぃぃ〜♪


次回予告
 LibrettoM3の改造に魅了される男たち、しかしその心の中にはいつの日にかLibretto再興をという悲願があった。その悲願を打ち砕くかのごとく、東芝開発陣が投入したのはLibrettoff1100という銀パソだった。
 はたしてLIBRERたちはどう戦っていくのか。長い冬に終わりはくるのか。
 次回「小さな本の戦い 〜技術とエレクトロニクスの男たち〜 後編」をお楽しみに!

 

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